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【イベント参加】 第4回協同企画公募展『音叉(おんさ)』

2011/08/16 13:48

 

 

新文藝活動紙「明日を見つけた!」として、

第4回協同企画公募展『音叉(おんさ)』「言葉」部門

に参加しました。

「ピアノのれきし」というタイトルの短編小説を投稿いたしました。

今回の新文藝活動紙、挿絵ゲストも、昨年に引き続き、みつもりさんにお願いしました。

 

みつもり
1991年生まれ。
大阪デザイナー専門学校イラストレーション科卒業。
絵を描く以外にも芝居や歌など幅広くかかわっている。
現在、印刷会社勤務。

 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 

『ピアノのれきし』

 

 山奥の村に、ピアノがやってきた。日本人の癖に金髪をなびかせた娘が、山の麓にある空き家に運び込んだ。運搬を手伝う者は誰一人いなかった。

「なんじゃ、あんな金ピカの髪をして」

「鬼みたいな顔をしとったぞ」

「関わるとろくなことはないじゃろう。くわばらくわばら」

 金髪娘は激しい気性の持ち主だった。村長が「戦争中に西洋音楽とは何事だ。軍歌を弾かんかい」と言えば「そんなの弾くわけねえだろが!」と、顔面にハイキックをかまして小屋へと戻り練習を再開した。

 村の愛国青年団長が「それ以上ピアノを弾いていると、スパイに間違われて逮捕されることになるぞ」と、脅すと、よりいっそう演奏に集中し、超絶技巧を繰り広げた。団長は魂の揺さぶられる思いに戸惑い、わけがわからなくなって逃げ帰った。

 金髪娘は、この村出身の男と西洋人の女との間に生まれた子らしかった。音楽教師となるべく東京で暮らしていたが、スパイの嫌疑をかけられて、娘だけここまで逃げてきたのだ。

 ある日、「大きな倉庫を作りたいのだが良い場所はないか」と、村長は軍より相談を持ちかけられた。真っ先にあの家を取り壊し、建て直すことを考えたが、金髪の娘を匿っていたと責められたら、いったいどう言い訳して良いかわからず、家の存在自体を消すことにした。村中の若者が集まり、ピアノの練習をしている間に、藁や草や土を家にかけて覆ってしまった。家は山の一部分と化した。

 金髪娘は、朝の時刻を迎えているにも関わらず、部屋が相変わらず暗いことに気がついた。おかしいと思って玄関を開けようとしても、重たくて動かない。

「あのバカ共め。また何か悪巧みを……」

 金髪娘は意地を張って暗いまま何日もいつも通りに過ごした。

「いつまで根比べを続ける気かしら。それでも弾いてやるわよ」

 しかしさすがに今が何日かも分からなくなってきた。彼女は一番嫌いな曲を弾いた。軍歌だ。これなら何か反応があるかもしれない。すると、最後の一音を弾こうとして終わる手前で、轟音が響いて、戸が崩れ落ちた。外へ出ると金髪娘の眼前には焼け野原が広がっていて、灰が舞い、炭と化した村があった。戦争がとっくに来ていて、とっくに過ぎ去っていた。娘が外へ出た瞬間、屋根が崩れ落ちた。軍歌の最後の一音が鳴った。

「あのバカ共……」

 終戦をむかえ、なんとか建て直した娘のボロ家に新しいピアノと共にやってきたのは、青い目の占領軍だった。何か弾いてみろと言われ、日本の曲だけを弾いた。村長が「西洋音楽とやらをはやく弾くんじゃ!」と怒鳴ると、華麗なるストレートパンチが飛び、村長は肥だめまで吹っ飛んだ。軍隊は青い顔をして退散した。

 村にはだんだんと人影が少なくなり、廃れた。改築を重ねた娘の家は、一番立派なたたずまいだという。今、どのようなピアノの響きになっているのかは、それでも村に残った愛国青年団長だけがにっこり笑って知っている。


 

おわり


 

 

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掌編「花」

2011/07/03 10:43

 

 

 花
 

 

 


 

 小学校の校庭には小鳥の小判が落ちている。

 それは、校庭の大きい楠木の根元でたまに見つかるオレンジ色の小さな実で、片田舎の小学生の間では宝物だった。

 休み時間に、皆こぞって小判を拾い集めた。 

 その内希少価値が生まれ、お金みたいに使うことも出来るようになった

 小判と泥団子を交換できる時があった。

 小判と黒糖パンが交換される時もあった。

 小判への熱狂は高まり、交換条件にチューしてあげるから……と男子に持ちかける女子も現われた。

 習熟度別クラスで編成された小学校において、低偏差値のクラスは小判を奪い合い、スラム化していった。

 中くらいの偏差値のクラスは、脱小判運動をはじめた。が、ポケットの中はオレンジ色の実でいっぱいだった。

 高偏差値の子らは、小学校全体の風紀と治安の悪化に憂慮し、一計を案じた。先生の助けを借りて、一旦小判をほとんど取り立てて、後で平等に配分するのだ。すると、誰もが小判を巡って争うことなく、小判を見つける前の、普通だった頃の小学生に戻るだろう。

 そう考えた。
 だが、高偏差値の子によって配分が全て決められるため、誰一人として彼らに文句を言えない世界ができあがった

 ある時、低偏差値の少女が、小鳥の小判は、実をついばんだ鳩の糞が乾燥し種の部分だけ残ったものに過ぎず、小判でも実ですらもないことを発見した。

『小判は糞』
 たちまち価値は大暴落し、いくら小判を積んでも石ころ一つとも交換できなくなった。

 ゴミ同然となった大量の小判が、校庭の裏庭に廃棄された。

 翌年、そこは色とりどりの花畑となった。

 しばらくして、ある噂が流れた。

『裏庭に透明な花が咲くらしい』

 手に入れることが出来れば、どんなものとも交換できるだろう。

 小学生らは再び沸き上がった。

 低偏差値から高偏差値まで一致団結し、片っ端から色のついた花を抜き取り、透明色を探した。

 結局、無惨に踏み荒らされた花畑だけが残った。
 透明な花なんてただのウワサだったんだと、呆然と皆が立ち去った後の花畑の片隅で、地面の少し上の空中に止まって、蝶が羽を休め蜜を吸っていた。

 

 

 


 


 


 


 

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知の巨人的発言

2011/05/31 00:48

 

 

綺想礼讃/松山俊太郎を読了し、気になった箇所を抜き書きする。

 


 

 

 

 

『昔、小泉八雲だったか、キミニセクトーレという言葉を使っていて、キミニというのは一種の木の実で、それをほじくる、重箱の隅をほじくる者という意味に匹敵するんですよ。だからそういうものをほじくる、現実の中にいても現実ではないなかへ逃げ込むという……現実にパンチを食らわせるために、大づかみに人が思っていることと反対のことを言いたいというアマノジャクとして現われるやり方もあるけど、そうなる前に、細かいことを集めてそこへ執着して逃避したいという精神のほうがあまりにも強すぎるから、現実と正面切って対決する段階にいかないわけね。でもまあ、虫太郎がいたか否かで、私の人生はだいぶ変わっているだろうとは思います。ただ、そういう作家も十人やそこらはいるわけで、だから本当に架空のものに依存しているわけですよ、私なんかでも。』(虫太郎研究という不可能願望)


 

 

 

 


 

宇宙というものは硫黄みたいなものだと思ったんです。硫黄というのは、気体のときと液体のときと固体のときでは完全に性質が変わる。宇宙というものは、自分の運命を全うするには決して安易な道じゃなくて、あるときは気体になって、あるときは液体になって、あるときは固体になるというような、宇宙がもう一つ面している外的な条件にかろうじて耐えて、みずからの姿も変えていかないと生き延びられないものじゃないか、そういう考えになったんです。』(輪廻思想をめぐって)


 

 

 

 

 

『輪廻というのは、ぼくは個人的には大好きなんですけれども、公に輪廻があるということを主張しているものはちょっと信じられなくて、輪廻思想というのは諸悪の根源じゃないかという反対の立場にあるんです。しかし自分個人としては、ある女の人を好きになって、それがうまくいかないと、ああ、これは生まれ合わせや知り合う時期が悪かったんで、この次生まれたときはもっと早く会おうって……。』(輪廻思想をめぐって)


 

 

 

 

 

 

『わたくし自身も、輪廻のからくりが操れるなら、江戸時代の北陸で犬に転生して、墨染の僧形となり百姓に仏法を説きたいという、複雑な願望を持っている。畜生ながら修行を積みかかる大徳となられたと讃嘆される、己が顔が目に浮かぶのであるが、奇妙なことに、垂れた二枚の三角耳を除けば、どうしても澁澤さんになってしまうのである。』(奇妙な犬神・澁澤龍彦)


 

 

 

 

 

 

『ところで、「人は、生殖力のある、猿の胎児である」というネオテニー学説と、「男は、昆虫の幽霊である」という自家製の仮説が、筆者の人間を考える基本である。前者によって、胎児化の進んだ人は超人となるという類推が可能となり、天才の幼稚さが根拠づけられる。後者は、羽蟻にとっての死語の段階が、男の固有の領域となるという発想であるから、男らしさとは、雄らしさでなく超越性のことになる。かくして、男にのみ生前と死語の世界が統一的冥界として開かれるから、物質および論理との関与が行われるわけである。ちなみに、女は、特攻隊として永劫回帰する男にとって、生の世界を代表する航空母艦である。超越度と幼稚度で測れば、澁澤氏が「もっとも男らしい天才」となることに異議はあるまい。』(澁澤龍彦集成)


 

 

 

 

 

 

 凄い人だが、有名になる人ではない。それは、抜き出した文章にもあるけれど、「重箱の隅」をつつくような、非常にまっとうで正しいことをしていて、思索を楽しみたい人の多い中では、読み飛ばされてしまう。取り扱っている人物を見ると、なにやら悪魔学やら民俗学やら性の話やらなんとかシズムとか玄人趣味なものがちりばめられていると思いきや、固い固い。実に恐ろしい論文集だった。

 

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保守雑文

2011/05/10 01:12

 

 保守知識人……と聞いて、何を思うだろうか。何を考えるだろうか。
 韓国人は出て行け~と叫ぶ人々だろうか。
 運動家で知識人である人が最近参加している。

 いま、街宣車で暴れる右翼は、ほとんど右翼とは呼べない存在だろう。
 チャンネル桜や西村幸祐氏らが関わるような訴え方と街宣車は根本的に異なっている。

 彼らが動くと、必ず、韓国人が殴られたとか悪い噂が流れるようになるだろう。
 また、彼らを冷笑するのはたやすい。
 一昔まで考えられなかったことをやっているわけだから。

 新しいことがはじまると、問題が発生する。

 人間は問題をいやがるモノだ。

 いやがられない方法を考えないといけない。

 それは、保守理論をつくることだ。

 よく、保守知識人から、大学、アカデミックはみんな左翼ばかりだうんぬんと聞く。

 ならばレオシュトラウスだの難波田春夫だのを研究して、体系化、理論化、それを応用にまでもっていけるような、科学的なものを作らなければならない。

 が、保守は、結局、神話から現代までを一続きと考える、ロマンチックなものがあるし、「やまとごころ」はたいへん鋭いものすぎて、言葉でとらえることがたいへんなのだ。「文字で頭がおかしくなったんだ」と言うのである。「じゃあどうやって論文書いたらいいねん」とつっこみたくなるくらいラディカルなのだ。

 しかしそれでも、論理にしなければならない。保守知識人は大変なのだ。それを切り開こうとして、知性の構造をやってみせた西部邁のスタイルと、国民の歴史や宣長・ニーチェを巡る西尾氏の著作は、たいへんな参考書物となるだろう。知性の構造という枠組みかつ、歴史への姿勢は西尾氏の、「己の怪しさに気がつかぬものは、神話の怪しさにも気がつけぬ」のような、論文なのか詩なのかわからないところまでいってしまうこと。

 保守は苦労する。神話はただの支配するためのものだとしてしまえば、どれほど楽か……。それを、現代まで続いてるとするなんて、たとえそれが本当でも難しい。

 

 保守派にも色々とあるだろう。

 小谷野敦さんタイプの人(天皇抜きはできるかな)。

 西部邁タイプの人(表現者系。社会経済、経済ナショナリズム)。

 西尾・よしりんタイプ(天皇中心)

 小山氏タイプ(親米、経済自由主義)

 そして、岩田温や西村幸祐など、新しいところを開拓しようと考えている「ジャパニズム」な人。

 特に西村氏は佐藤優インド中島に惑わされないところが良いと思う。

 気になるのは日本保守主義研究会である。早稲田の人だ。
 この人たち、早稲田文学についてどう思っているのだろう。
 オシャレなフリペもつくってるんだし、何か関わったらどうだろうか。
 岩田温を含め、彼らの博士論文はいつでるのだろうか。
 彼らはおそらく難波田春夫の研究をしているのかもしれない。
 保守思想という1号だけの冊子で、スポンサーとなった工事現場の会社の集合写真での、岩田君らのあの子供みたいな姿はどうなったのか。

 難波田については、時代状況に合わせて力強くある家父長倫理の「家」、相互扶助でややアナーキーでそのつど国の形にあわせて力強くある「郷土」、民心とともにある天皇が権力者に公心をもたらす無私という「国体」。この三つの要素のある日本という国柄でもって、これからの国と経済は、私さえよければいいという自同律的なるものから、私は私じゃないもので私なのだという他同律へ向かい、経済は経済でないものでもって経済以上の経済として自覚することとなるだろう。その経済でないものとはおそらくネットになるのだろうが……。ふとネットにある難波田の文を読んでいて、「シェア」のことを思った。既得権益でも新自由主義でもない、起業しやすい保険制度、公平な市場、非営利団体・ボランティア精神の普及、利権のない公共的支援、そして占有でなくシェアしていく経済活動。物の共有から、データをネットで共有すること、そして物をネットで共有するような分かち合い経済で国が、日本的経済でもって豊かになれば良いといった感じが難波田の話だろうか。全然わからないので、保守主義研究会から、まとまった著作が欲しいものだ。

 岩田氏らの研究成果は、西村氏のジャパニズムに反映することはできないだろうか。学術的なものは絶対掲載せずに、ジャーナリズム的な話題中心で、せめていく感じだろうか。

 ところで、ジャパニズムに関して、一つだけ思ったことがある。内容は幅広くていいのだが、表紙の絵がへたくそである。漫画は、ゴミ同然のへたくそさである。よしりんの画力が56万だとしたら、ジャパニズムの漫画は、あの4コマの人はさておいて、戦闘力はゼロである。数字すらつかないだろう。即刻クビにしろ。うまい絵描きは山ほどいる。もちろん、おっさん受けする油絵を表紙にしろといっているのではない。うまい絵描きは山ほどいる。もう一度言えば、うまい絵描きは山ほどいるということだ。うまい表現者も山ほどいる。もっとオシャレにすればいいとおもう。大学のコミック部の同人誌でも、非常にレベルの高いものはいくらでもあるだろう。もちろん高校・中学でもうまいところはうまい。そのうまさを、若返ったジャパニズムに反映させたらと思うのだが。

 

 

 いつからか保守を調べたりしたのは、新しい歴史教科書に賛同する人って、むかしどんなことを書いてたのだろう、めっさ固い論文やってるやん!という驚きからきたものだった。藤岡信勝なんて、結構社会科教育の工学的な著作をどんどん残している。それがいつのまに近現代研究になったのだろう。残念である。しかしまたそれがどこか面白いのである。

 

 

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ギャグ(?)短編ふたつ

2011/05/09 01:12

 

短編二つを書いた。タイトルはない。

 作品その1

 一ヶ月間溜め込んだ便を出し終えて、私はすぐに流さずそのまましばらく浮かべておこうと考えた。大便後のしんみりとした静けさの余韻に身を任せていた。だが、だんだんと寂しさがこみ上げてきた。「これ、流すのもったいなくないかしら」気がつけば、私は尻も拭かずに下半身丸出しのまま押し入れにしまったカメラを探していた。記念写真として残すことにしたのだ。すると、奥からしわくちゃの一冊の本が出てきた。「『ハエは見ていた』かぁ」なつかしいスカトロ冊子のタイトルだった。若かりし頃、私はスカトロ界のエースとして、この雑誌のトップをいつも飾っていた。集中すればうんこと会話もできた。夫が帰れば、今夜はカレーにする? それともうんこにする? それともう・ん・こ? だった。まだやれる。いや、やってみせよう。ふつふつと便意とやる気が沸いてきた私は、編集部住所のページを破いて、タッタッタッタ……。駆けだしていた。「あ、いけない」私は、尻がむず痒かったので、さっと拭いてしまって気がついた。住所のページはうんこで塗りつぶされて、読めなくなっていた。


おわり



 作品その2

 小学校の頃、僕は熟女もののエロ本と間違えて、スカトロ雑誌『ハエは見ていた』を万引きしてしまった。マンションの非常階段で、とりあえず抜けるページを探しだし、事後、服の中に隠して素早く自室に入り、押し入れ奥のクッキーの空缶に閉まった。
「これはいつか、僕が目覚めてしまったときのためにとっておこう……」
 それから数年後、僕は大学受験のため、毎日遅くまで勉強ばかりしていた。
 とある日曜日、僕は遅めの朝食をとるためリビングに座ってぼんやりとご飯ができあがるのを待っていた。父が僕の目の前でごろんと横になりながら、安っぽいサスペンスドラマを観ていた。零細企業の社長である父は、白髪の物静かな男だった。母は、トーストのうえにトマトやキャベツを乗せて、「できたわよ」と声をかけてくれた。「はーい」と僕は返事して立ち上がろうとした。すると、ドラマのワンシーンで、家政婦が犯人を目撃する場面が出た。
「あ、これは……」と、僕が思わずつぶやくと、父が「ハエは見ていた、やな」と、にやっと笑ってこちらを見た。
 僕は心が沸き立たせながら、トーストを必死にむさぼった。


おわり                                  





さあ、フリペ作業に戻るぞ!
 

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シュールについて

2011/03/30 02:01

 

 

 

 シュールですね。

 これは誉め言葉だろうか。

 それとも、ごまかしだろうか。

 

 ある小説の合評会で、ほとんどの感想が、「シュールで、とても素晴らしいです」というもので埋め尽くされたことがあった。

 内容がない、と言ってるのと同じなように、思った。

 僕はもちろんそう感じていたし、そのシュール小説も、僕から読んでみれば、ただ人が死んで、その人の肉を食べて、グロテスクな描写をただひたすら描いているばかりの、工夫のないものだった。

 

 印象に残ることだけを書いていますね。

 

 これがイコール、「シュールですね」、になるのだろうか。

 シュールとは、印象と、同じことだろうか。

 

 リアリティと呼べるものを、コミカルに描き、いまにも世界は異常を来して崩壊しそうな、そんな危機感にまで追い込んで、そこで作品を制止させていますね。

 いや、これがつまり、シュールなのだろうか。

 

 とある絵描き、Y氏の絵は、確かに最初、僕だって、とてもシュールですねと、言っていたかもしれなかった。だが、言いながら、ああこんな言葉にまとめてしまっていいのだろうかとも、思っていた。

 だんだんと彼と彼の絵につきあっていくごとに、ほんとうにシュールなのか、作者はやりたいことをただやっているのだ、自分なりに面白く信じたことをしているのに、なぜそこに、「作者に伝わるような感想」を言わなければならないのだろうか、と、考えた。

 自分の感想を作者にわかりやすく伝えてどうなるのだろう。

 わかりやすく伝えているのは、作者のほうである。

 読者は、「印象には残ります。どっかで、もしかしたらこの絵をふと思い出して、まるであの絵みたいだって、あの絵の状況みたいだって、言うかもしれません・・・」でいいのではないか。

 作品のほうから、現実になっていきますよという感想が、一番感想らしい、と思っている。

 自分の夢を、疑いながらも語ることが批評なら、僕はY氏の絵に対してこう言えばよかったのかもしれない。

「この絵は、ものすごく人に紹介したくなるし、なんだかいろんな人に勧めたくなるけれども、誰も僕ぐらい理解はしてくれないだろうと思えるくらいの、広まって欲しくない、という気持ちも持っている。でもそれでいいのだろうか、というやきもきした気持ちがあるから、ほんと、迷惑この上ないけれども、よくぞやりやがったというのもあります」

 

 「シュールですね」とは、こうした、自分の気持ちの動きの鈍くささに、正直に向き合おうとせず、作品そのものを、自分から突き放して、作者にわかりやすく感動を伝えようとして現れた「挨拶」である、と思う。

 

 さて、話を戻して、肉を食いまくる小説がつまらなかった、その事実に対してはどうすればよいか。

 それは、一生懸命、とても熱く語れば、いい。しかも、その人へ、真剣さ、その作品を良くしようとするための努力が伝わるように、声から何から劇的にして、「おしい!」と叫ぶ。作者や作品以上に、感情の起伏を激しくし、細かく指摘し、誰もが納得できる普遍性にまで達する人間論にまで行き着く情熱でもって接すれば、良いのである、と思う。

 つまり、つまらない作品に対しては、作品以上に面白いレビューでもって、感心させ、次もっと書けば、もっと面白いレビューが聞けると思えるクオリティにすれば、いいのだろう。

 

 かくも感想、批評等々は、難しいものである。

 もし、簡単にすませようと思えば、知識とツールを使いこなして、難しくすればいいのではあるが・・・・・・たとえばタイトルを、「シュールあるいは哲学史の限界について」とかにするとか。

 

 

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西部で全集妄想

2011/03/28 18:14

 

 

 

 西尾幹二全集が出るという。

 ニーチェの研究もがっつり収録されていて、読むのが楽しみ・・・。

 西尾幹二と聞くと、ちょっとした人は「右翼」だとか何とか言うけれども、普通に相当な知識人だと思う。

 うちには変な趣味みたいなのがあって、いま、いわゆる保守派として、保守系雑誌でばんばん発言している右より有名人の、昔の学者としての仕事はどんなものだったか、それを調べること、です。趣味とは言えないですね。ってかそんなに調べてないし。

 けれど、保守系の人が出てくると、どうしても、「ちゃんと昔は学術やっとったんかな~」と一番古い著作にあたってしまいます。

 なので、たとえば西部邁や藤岡信勝を検索すると、一番古い本から見てしまいます。八木秀次もそうです。その古い本がちゃんとした本であればあるほど、その人の保守思想は確固たるものにできあがっていますが、若い頃からはやくに保守運動に身をおとしてしまい、学問的な業績をがっちりやっていない人はだめです。保守の若手は、いずれ総崩れしてしまうのではないか。岩田温さんら超若手には、ものすごーく固い、5000円くらいする博士論文の研究書を出して欲しいのだけれども、もうそれは無理なのかしら。保守思想と思われるような超マニアックな本をばんばん翻訳や注釈やって、でっかい理論の城を築いて、左翼思想みたくマニアックで鮮やかでかっこよくして欲しいと思います。

 

 ところで西尾全集が出るとするならば、パトロンのジョルダンより西部全集も出して欲しいと思います。

 西部邁全集。妄想で考えてみると・・・。

 

 第1巻 西部経済学

「ソシオ・エコノミックス、労働の固定性とフィリップス曲線(経済セミナーに収録)やTechnical Progress and the Investment Function(経済研究)、技術進歩の諸問題(現代経済学の展開に収録)、異端の経済学(経済展望談話会セミナーに収録)など1988年頃までの研究論文系のものをまとめたもの」

 

 第2巻 西部思想

「知性の構造、 昔、言葉は思想であった 、戦争論、人間論、死生論、虚無の構造」を収録。

 

 第3巻 西部評論・エッセイ

「生まじめな戯れ、大衆への反逆、批評する精神(1~4)よりいくつか取り上げるもの」

 

 第4巻 西部人物批評

「経済倫理学序説、ケインズ、福沢諭吉、思想史の相貌、ニヒリズムを超えて、思想の英雄たち、六〇年安保センチメンタル・ジャーニーより取り上げるもの」

 

 第5巻 西部憲法・知識人・アメリカ

 わが憲法改正案、知識人の生態、アメリカの大罪」

 

 第6巻 西部自伝

「蜃気楼の中へ、剥がされた仮面-東大駒場騒動-、友情、サンチョ・キホーテの旅」

 

 第7巻 西部対談

「西部対談集として浅田彰や吉本隆明などとの2000年以前の知識人同士との対話をまとめたもの。ただし西西論争を含め西部西尾対談になっているところは時期を問わずできるだけ集めたい」

 

 解説で取り上げたいメンバーとしては、清川雪彦、原洋之介、吉沢英成、青木昌彦、長崎浩、柄谷行人、鷲田小彌太かしら。

 よいしょ文ではなく、この、微妙に西部と距離ある人が、特に感想もないかもしれないけれど、どう思っているのか知りたい。何も思ってないかもだけど、とりあえず書いて欲しいとか思ったり。まとめていてふと思った。佐伯啓思、杉村芳美、間宮陽介、佐藤光、宮本光晴、坂井素思、松原隆一郎ら…。東谷暁、中野剛志。そして柴山桂太、黒宮一太ら…。福田和也、スガ秀実、富岡幸一郎、小谷野敦、池田信夫らによる西部邁への文章をまとめたもので「解説集」みたいな本を読んでもみたい。 あんまりインド中島とか佐高とかよしりんは入れたくないものだ。 あと最近弟子っぽくなってる人。

 編集は小山晃一になるのかしら。

 しかし西部邁氏で「あら・・・」と思ったのは、「学問」とかいう本が出た頃で、とにかくまったく文章の濃密さもおもしろさも急激になくなって、どんだけ暴走するんだと思えるくらいえらいことになってしまった時期がはっきりとある。911事件と小林よしのりを巡る保守間のイラク戦争論争ぐらいの頃からだ。

 そしてこうやって並べてみるとやはり西尾幹二は国民の歴史や江戸の思想、焚書本の紹介、ニーチェ研究を含めて縦の方向を担い、西部邁は思想について横の方向を担い、この二人の作った十字の上で保守が展開していると思えたりする。

 

  妄想で全集やってみると、その人の流れってよくわかりますね。やってみてなんとなく勉強になりました、とさ。

 

 

 

 

 

 

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「小林秀雄の「人形」」

2011/03/27 18:37

 



 小林秀雄は、大阪行きの急行の食堂車で遅い晩飯を食べていた。
 やがて、前の空席に、上品な子連れの老人夫婦が腰をおろした、そこから話は始まる。
 何かの拍子に、子どもの帽子が落ちてしまう。細君が目配せすると、夫は帽子を拾い上げ、会釈して車窓の釘にそれをかけた。妻は子どもを横抱きにしていた。薄汚くなった丸坊主を出した子ども……。
 いや、それは、人形であった。
 小林はそこで、これは息子に違いない、戦争で失った子であろうか……人形の顔から判断すれば、よほど以前のことだと、考えた。

 夫は旅慣れた様子でビールを飲んでいた。妻は運ばれたスープを一匙掬っては人形の口元に持っていき、自分の口に入れる動作を繰り返していた。
 彼女の食事は二人分であるから、遅々として進まない。
 そこへ大学生かと思われる娘さんが、小林の隣に来て座った。
 彼女は一目で事を悟り、この会食に、素直に順応した。小林は、彼女が私の心持ちまで見てしまったとさえ思った。
 異様な会食は、無事、和やかに終わったのだが、最後に小林は、もし、誰かが人形について余計な発言でもしたら、どうなったであろうかと、思うところで、話は終わる。

 小林秀雄「人形」が今回読んだ出来事である。物語ではない。急行の食堂車に乗り、フラグが立ち、正気に還らぬ細君と夫に出会う出来事に遭遇し、そのまま終了した。
 それだけといえばそれだけだが、小林はこの出来事の中で、何も現実的行為をしていない。思った、だけだ。可能的行為が極大であるがゆえにであろう。
 頭が狂ってる。つらくないですか。息子さんはおいくつで亡くなったのですか。そんな可能も行為も個人的自己表明も、とうに「予感」によって奪われていた。謎を解くのではなく、謎は謎のまま深めていくという、キリスト教的な終末の予感によって。
 終末がどんなものかは、いくら考えても分かるわけがない。ただ終末の「最後の審判」という出来事で救われるため、今を一心に祈り、生きる。
 人形は、予感を夫婦でなく、小林や娘さんに示していた。二人の信仰とは、人形について、所持者本人には黙って、悟ることだ。
 たった一言で、場が、世界が、食堂が机が、崩れ落ちてしまうような、危うい穏やかさ。
 もしかしたら人形に匙をもっていくのは、単なる習慣であり、全く細君は正気であり、ただ彼女の悲しみが深いだけであるかもしれない。
 周囲の浅はかな好奇心の目。道ばたの綺麗な一輪の花と、それがスミレに過ぎないと知ったときの、目。そうした目=近代的自己の中にある相反する自己=信仰を好み、信じ、楽しむ心でもって、何ら観点も設けず、夫婦に対して無私の経験を見、高次へと理性を飛翔させ、一切のずるがしこさ、気の利いた言葉を捨て、謎の深まりをただひたすらに生きてみせること。
 それを、素直な心で確信すること。
 きっと記憶に過ぎないものを、思い出に変える、私達に余計な思いをさせない過去を持つこと。
 上品という階級や急行という交通を超えた内部に、そういった事々が、出来事とぴったり重なり、人形という物に一致する。そんな、小林秀雄の、批評的、一短編である。



<了>


 

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課題作「エレベーターと3人」

2011/03/26 02:30

 

「エレベーターに閉じこめられた。私と友人と二人が恋している人と三人。さあ、どうする?」
 はがき一枚 600字以内。

 課題提出作としてこの前書いたものでする。

・・・・・


 自慢の長い髪をサッとかき上げて後ろに括り、私はまず、「右正拳でぶっ飛ばす」と考えた……。
 それは、私と、先ほどゲットした愛しの彼と、同じ婚活中で彼の横取りをたくらむ友人A子の3人で、ホテルのパーティー会場からフロントへと降りていく途中のことだった。
 突如エレベーターが止まり、真っ暗になり、閉じこめられた。
 「キャー」とか悲鳴を上げて女らしさをアピールする時期はとうに過ぎてるし、むしろ逆効果だ。というか止まった瞬間、おっさんのような呟きで私達二人が「お、止まった」と素のリアクションした時点でもうブリッコできるタイミングを逸した。
 この事故を良い展開に持って行きライバルを打ちのめすにはどうするか。「開けろよ!」と、閉じこめられたショックで愛しの彼(医者)が軽く動転している隙に、友の顔をぼこぼこにして、顔の整った私と彼が協力して、この事態を打開、脱出し、吊り橋効果でおひとりさまの危機からもいち抜けるハリウッド的作戦しかない。元空手部としてはこれだ。
 しかし彼女も同じことを考えていた。さすがは同じ部活仲間。鉄拳が顔面を貫くはずが、手応えと同時にクロスカウンターがアゴに入り、脳が揺さぶられた。お互い、膝にきている。足下から重たい振動が這ってくる。全身が、エレベーターにあわせて揺れているようだった。次の一撃で終わりだと、二人が頷いた。

 と、エレベーターのドアが何かの拍子に開いた。
 真っ先に飛び出したのは彼。そして「よかった~」と後ろを振り返ると、口から血を垂らして白目を剥いてエレベーターにあわせてゆっさゆっさと上下に揺れる私達二人に仰天し、彼は失禁しながら走り去った。私達はお互い戦闘態勢のまま一歩も譲らないが、もはや譲ろうが譲るまいがどちらでもいい状態だった。
 エレベーターのドアがゆっくりと閉まり、「上へ参ります」とアナウンスが流れ、そのまま婚活会場へと私達は戻っていった。交わされようとされた拳が、自然と握手に変わった。


~終~


 

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モモ

2011/02/13 03:05

 

 

「ごめん、時間ない」、「私が焦ってるの、見ててわからないの?」、「無駄口叩かないで」、「相手してる暇ないから」。
 今、私たちはとても窮屈な時代を生きています。
 『モモ』に登場する時間どろぼうにすっかり時間を奪われてしまったからです。
 現代に生きる私たちはこんな言葉に囲まれていると思います。
 もっと合理的になれ、効率良くしろ、余計なことを考えず生きろ。充実した人生を送れ、眠る時間以外は自分磨きに集中しろ。資格を取得して、自己啓発して新しい自分になれ。マニュアルを頭に叩き込んで即戦力になれ。そうしないと周りに置いて行かれる。みじめな人生が待っているぞ。他の奴のことなんて考えるな。時間はないんだ。
 そんな「~をしなければ生きていけない」で占められた空気の中で私たちは息も絶え絶えに呼吸して過ごしています。
「世界で一つだけの花~♪」という歌、大事だよね、とでも言えば、嘲笑と共に「甘えだ」、「ふざけるな」、「贅沢言うな」と袋だたきにあい、恥をかいてしまいます。
 
 ミヒャエル・エンデの「モモ」の主人公『モモ』はこれらの空気の化身『時間どろぼう』と戦う物語です。
 モモは街の外れにある円形劇場の廃墟を住処として、人々と仲良く暮らす女の子です。ある日、時間を無駄にして生きるな、その時間を私たちに預ければ利子をつけてお返しするという時間貯蓄銀行を運営するどろぼう達が現れます。街の人は、なんて無駄な時間を過ごして来たことだろうと思いこみ、モモに構わなくなって必死に働き始め、何も考えないエゴの塊となります。どろぼうは、人が貯蓄した時間を葉巻に変えて、それを吸って生きている存在です。彼らを相手取り、モモは一人一人の大切な時間を取り戻すため、様々な困難を乗り越え、みんなを忙しいだけの空気から解放するという話です。
 
 ミヒャエル・エンデ(一九二九―一九九五)は南ドイツ生まれの児童文学作家で、モモは一九七二年の作です。岩波少年文庫として小学五・六年生以上向けであるものの、大人でも十分読み応えのある一冊です。
 
 モモと時間どろぼうの対立は、資本家に人間としての生き生きとした労働を奪われることに警告を発する寓話に読めます。時間=お金として、儲けるために機械化・合理化を果てしなく続ける資本主義経済について批判的に考えることができます。
 しかし、それだけでモモは終わりません。想像力を奪う、情報社会批判をも含んだ読み方もできると思います。
 例えば物語の中に登場する子ども達は、どろぼう出現前には円形劇場で冒険家ごっこをするのですが、時間どろぼうが現れると、子どもは外に出られず、施設の中で、頭がよくなる遊び道具を相手に、日々を送る羽目になります。
 私たちも、朝起きて、夜中まで必死に働き、手の空いた時間はテレビ、アニメ、ゲーム三昧。ネットでは様々なニュースに対して、バッシングと誹謗中傷と反射的な言葉の数々に晒され、二手三手先を熟考する想像力はどこにもありません。
 私たちはどうすればそれを取り返せるでしょうか。
 モモを読めばわかることがあります。
 どろぼう達を撃退したモモはたった一つ、特殊な能力を持っていました。
 人の心を開かせ、本音で語らせ、本気で考え、スッキリとさせることです。自らの言葉で考える力を人は持っているんだということに気付かせる「聴く力」をモモは使えるのです。モモは何も話さずそこにいる。人の話を真剣に聞く。それだけで人々は幸せになり、想像力と思いやりのある社会を築くのでした。
 私たちの目は映像社会でとことん肥えてます。嗅覚も舌も非常にグルメであると思います。ただ、聴くことはいかがでしょうか。そして考えることは……。
 いちいち考えてる暇なんてない。たくさん本を読んで何か吸収しないと……。おいしい話以外、聴く気ない。そんな空気に飲み込まれそうな時や忙しさに心奪われかけた時、読みたい本だと思います。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 とある冊子(?)に投稿した文です。
 モモ・・・というか児童文学というものを生まれてはじめて読みました。
 骨太も骨太。頭の良い子に育つようできています。さっぱりついていけませんでした。それでもなんとか感想らしきものを書いてみましたとさ。
 
 
 

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